日本古典文学大系月報5

「大系」月報5は第63巻『浮世風呂』附録。

 

 

吉田澄夫「江戸言葉のなごり」

「東京へ出て来て、まだ大震災前のこととて、江戸のなごりは色濃く残っていて、日本橋の小網町河岸の白壁の土蔵などを見るにつけ、芝居や寄席に行ったりして、江戸情緒を懐かしんだものであった」

吉田澄夫博士は昭和60年84歳で没とのことで、生年は1901年明治34年頃か。大震災は1923年、吉田青年はハタチそこそこ。

この月報は昭和32年、1957年の発行なので、先生はまだ56歳とお若い。戦前はもちろん、大震災前がせいぜい「一昔前」の距離である。

「江戸言葉は、家康の江戸開府以来の言葉で、いわば殖民地的城下町の言葉である。諸国方言の上に立った混成的言語である。関東語の要素もあれば、関西語の要素もあるというのは、むしろ当然のことであった。江戸言葉として一応の完成を遂げるに至ったのも、せいぜい享保ごろから後のことで、言語の生命という点よりみれば、極めて短命の言語といわなければならない。そして江戸言葉の完成した姿は、式亭三馬滑稽本為永春水人情本において永久に記録されたといってよいであろう」

言語の生きた姿をとどめるのは文字記録だけであった。これからは音声を伴う映像記録がそれを補助するか、取って代わるだろうか。それとも変化があまりに速すぎて、それをとどめる必要など誰も感じなくなるだろうか。(最後の審判の日にこれまでWWW上に存在したすべての情報がいっせいに復活したりしないだろうか。)

「行カナカッタ、見ナカッタのナカッタも幕末の江戸において発生したものである。それより以前は行カナンダ、見ナンダであった。行カナカッタ、見ナカッタは江戸の古くからの用語であるとばかり思っていたのに、実はそうではなく新しく発生したものであること、洒落本でも滑稽本でもほとんど全部ナンダであって、天保人情本に至って、はじめてナンダとナカッタとが混用されている実例を知るに至って、その驚きは異常なものであった」

春水「春色梅児誉美」が天保3年、1832年で、吉田博士が生まれる70年ほど前でしかない。2018年の今日からみてこの文章が書かれた1957年頃は約60年前である。

 

宮尾しげを「「浮世風呂」のこと」の末尾に、「三馬の子孫というのが今もいて、製本業を日本橋で営業している。著述に関係あるのは、面白い」とある。三馬の父親は版木師だったという。

60年後のこんにち、製本所が日本橋で営業しているだろうか…と検索してみると、東京都製本工業組合日本橋支部に5軒の名があった(ただしこのウェブページがいつ作成更新されたものかわからない)。三馬の子孫、等で検索しても姓などはわからず。

と思っていたら次の中村通夫「三馬あれこれ」が三馬の百三十六回忌にあたって催しがあり、「江戸文化財研究会の野口由紀夫氏は三馬の血縁者の協力を得て」云々とあった。江戸文化財研究会はなにかの前身かもしれないと思って検索するも1件、野口由紀夫氏に至っては当然のように「もしかして: 野口悠紀雄」でありそれを避けても個人ブログの誤字の嵐である。これでもGoogleを万能かつ唯一の調査手段と考える人が少なくない現実に、どう立ち向かえばいいのか。

それはともかく中村通夫「三馬あれこれ」のこれまた末尾に、求めていた答えに限りなく近い情報があった。

「三馬の子孫としては、その六代目に当る柴田錠太郎氏が中央区日本橋通二ノ七に製本工場を経営され、また町会長として活躍されており、菊地姓は氏の実弟武次氏が継いで、中央区江戸橋二ノ一に同じく紙加工業を営んでおられる」

事業所ということもあるが、奥付に著者の住所を載せていた時代のおおらかさを感じる。

日本橋通二丁目」は旧町名で、日本橋江戸橋二丁目と合併して日本橋二丁目になったらしい。七番地が現在の何番地にあたるかは新旧の地図を見比べればわかるだろうが、とりあえず現在の「中央区日本橋通2-7」周辺に、三馬の子孫はいるだろうか。

さっきはケチをつけたがこういうことはGoogleの独擅場、素直にググれば「東京日本橋タワー」と出た。Wikipediaにまで立項されている。「日本橋東洋ビル、大手町建物日本橋ビル、アパホテル日本橋駅前、日本橋交差点ビル、東京大同生命ビル、榛原本店ビルなど中規模のビルが立ち並んでいたエリア」とのことで、これらのビルの中に三馬の子孫がいたのかもしれないが、どうもこれ以上は大変な調査になりそうだ。

再開発前に本店があり新しいビルにも入居している榛原は紙舗(いい言葉だ)であり、ウェブサイトによれば「創業は文化三年(1806年)初代佐助が和紙舗を開業してから二百年にわたり、 日本橋の地で商いを続けさせていただいております」とのことで、三馬存命の頃からこのあたりで紙を商っていたということになる。

紙舗や製本所があり、さらに前には須原屋茂兵衛が店を出していた日本橋は、出版業がさかんな土地だったのだろうか?神田神保町のように?私は東京の人間でないので、昔の日本橋といっても三越(すなわち三井越後屋呉服店)や白木屋があったことぐらいしかわからないが、明治の頃はいくつもの出版社があったらしい(春陽堂本社は今も日本橋にある)。しかし今は経済書関係の版元が多いようにみえる。それは街の性格が変わったというより、かつては文芸出版社も日本橋に店を出せるくらい景気が良かったということなのだろうか。

日本古典文学大系月報4

「大系」月報4は第13巻『落窪物語堤中納言物語』の附録(昭和32年8月)。

 

  • 異常な愛着 堤中納言物語と大和物語(浦松佐美太郎)

  • 絵巻と物語(奥平英雄)

  • 中古の作品のユーモア(松尾聰)

  • 色々の紙(一)〈書誌学の話 四〉(山岸徳平)

  • 銭湯談義(暉峻康隆)

 

奥平英雄「絵巻と物語」

源氏物語の中には、当時存在していた作品として「からもり物語」、「藐姑射刀自物語」、「竹取物語」、(……)「せりかは物語」、「朱の盤物語」「長恨歌物語」などの絵巻の名を記している。「源氏物語」は多分に虚実をとりまぜて作られた物語ではあろうが、しかし以上の絵巻の諸作は実際に世に存していたと考えていいものと思う。此の中の「竹取物語」については「絵は巨勢の相覧、手は紀の貫之書けり。紙屋紙に唐の綺を配して、赤紫の表紙、紫壇の軸」と記し、「宇津保物語」については「白き色紙、青き表紙、黄なる玉の軸なり。絵は(飛鳥部)常則、手は(小野)道風なれば、今めかしうをかしげに、目も輝くまで見ゆ」と記してある。これらの作品は今日伝存せず見るべきよしもないが(……)それがいかに繊麗をきわめた芸術品であったかは、想像に絶するものがある。」

 実在していたであろう、ということだが、もし実在していなかったら、それはそれでとても面白い(文学史・美術史的には勘弁してほしいだろうが)。フィクションなら何でも書けるのだ。(ボルヘスやレムのように)本はもちろん、絵画でも、実在の監督が実在の俳優を使った架空の映画だって〈存在〉させられる。もし紫式部が「あったらいいな」で書いたなら非常に楽しいが、なんとなくそういう人ではないような勝手な印象がある。

日本古典文学大系月報3

「大系」月報3は第3巻『古代歌謡集』附録。

2同様「各巻目次」はない。まだスタート直後なので当分先のことは言わないのだろうか。マラソンで「いよいよ残り40キロです」と言わないようなものか。それとも本体の方の巻末にでも載せて月報は止めたのだろうか。「大系」のこのあたりの巻は手元にないのでわからない。

 

矢島恭介(東京国立博物館考古課長)「歌舞奏楽をあらわした二三の考古遺物」、林謙三(奈良学芸大学教授)「音楽として見た催馬楽」、高木市之助「記紀歌謡の植物園」、山岸徳平「緞子と金襴の表紙 及び「みどり」の黒髪 ―書誌学の話 三―」、土橋寛「古代歌謡と「楢山節考」」

奈良学芸大学は現在の奈良教育大学、前身の奈良師範学校をさらに遡ると明治7年開設の寧楽書院だとウィキペディアが教えてくれた。寧楽の表記が現在に残らないのはもったいない気がする。

 

矢島恭介「歌舞奏楽をあらわした二三の考古遺物」

群馬県群馬郡滝川村の高塚古墳から出土したと伝えられている古鏡の背面に、槍と盾を持った一団の人物が躍り、舞っている状をあらわしたものがある。(……)所々に鹿などの獣が点々と見られるところから、これは狩猟の図をあらわしたものであると一般に考えられているのであるが、しかし、この画面に見られるものは、(……)獲物の豊かであった収穫を祝って歓喜・躍舞している状であると見られるものである。」

“あらわしたもの”と“見られるもの”がどんどん出てきて、ちょっと小煩い校正ソフトなら警告してきそうだし、普段私はこういう文章につんのめって苛立つたちだ。この後の文章もこんな感じで繰り返しがやけに多い。しかしそれが、なぜかだんだん心地よく感じるようになるのは、古代の歌舞を扱った文章だからだろうか。

 例の有名な〈踊る埴輪〉の写真が掲げてある。

「注目される点は、このような卑俗な風采で、しかも、目鼻や顔の表情は、よほど変わった貌をしていて、両手は、しなやかに上下に振りつけて、身振りよろしく謡いながら踊っている姿を表している。唄う埴輪と言われるように、極めて自由な、とらわれるところのない姿態で踊り、唄っている。この埴輪からは確かに歌声が聞こえてくるようである。」

読みながら写真を見ると、本当にしなやかで自由でとらわれるところのない姿に見えてくる。(それにしても「よほど変わった貌をしていて、両手は、しなやかに上下に振りつけて、身振りよろしく謡いながら」というような文章を、今の私たちが書けるだろうか?私は書けない。羨ましさに内心身悶えするだけだ。)

しかし、後の研究によると、実は踊っているのではなく馬を引いているのだという。熊谷市のウェブサイトでは「しかし、ここまで、知名度が高まってしまうと「踊る埴輪」という名称自体が固有名詞化していると判断され、(……)万が一踊っていなくとも問題はないと判断されます」とある(熊谷デジタルミュージアム「コラム21:踊る埴輪と踊り」)。実際、あれほど楽しそうに馬を引いているなら、「万が一踊っていなくとも問題はない」と言ってよいだろう。

 

土橋寛「古代歌謡と「楢山節考」」

「『楢山節考』のうわさ話もやや下火になって、世間の人気はまた新しい文学賞作品に移ってゆくようである。しかしこの作品は、ぱっと人気をあおって消えてしまう流行作家の小説とは少し違っていて……」と書き出される。

深沢七郎楢山節考」は昭和31年、つまりこの月報が出る前年の11月に「中央公論」に掲載され、第一回中央公論新人賞を受賞。第二回は該当なし。

「新しい文学賞作品」は何か。この月報が昭和32年7月発行なので、その少し前なら芥川・直木賞の前年下半期(1月選考・3月号に掲載)か。31年下半期の芥川賞は該当なし、直木賞今東光穂積驚だが、それよりは読売文学賞三島由紀夫金閣寺」の方がありそうな気がする。「ぱっと人気をあおって消えてしまう流行作家」には前々年度(昭和30年下半期)芥川賞・第1回文学界新人賞を受賞しすぐに映画化された「太陽の季節」も連想する。いずれにせよ文学(賞)に「世間の人気」があった時代を偲ばせる。

月報2の大野晋によるレプチャ語起源説批判もだが、月報は本文と違って消えもの扱いなのか、時事的な内容があらわれるのが面白い。

日本古典文学大系月報2

「大系」月報2は第30巻『方丈記徒然草』附録。

 

ところで月報1の「各巻目次」では全66巻・別巻索引の計67巻が予告されているが、最終的に第二期34巻を加えて全100巻(と索引2巻)となった。

第一期は第1巻『古事記祝詞』で始まり、『日本書紀』は第二期で初めて現れる。「新大系」にはどちらも入っていない(その前に出た「新装版」に入っている)。

文学と歴史なら歴史寄りみたいな扱いだったのだろうか?(すでに「国史大系」が刊行されていた。)

 

月報2には「各巻目次」はない。いつまでもだらだら宣伝しない岩波の潔さだろうか。個人的にはああいう刊行予定を見るのが好きなので、月報に毎回載っていたら、すでに買ったものに✔を、欲しいものに☆を書き込んだりして楽しんだと思う。全巻予約配本のみだったのだろうか?岩波の社史を見ればわかるか。

 

月報2は、田宮虎彦方丈記のことなど」、新村出方丈記徒然草」、篠田英雄「兼好の一隻眼」、西尾実「つれづれ草の友情論」、山岸徳平〈書誌学の話〉二は「書物の表紙と大小」。

「表紙という文字は、標紙とも書く。稀には裱紙などと書いたものもある。いずれにしても、字音は「ひょうし」となるのであった。」

 

全集の月報にはだいたいある〈編集室より〉が、この月報にもある。

「第一回発売「万葉集一」は、非常な好評でありました。内容・形式・装幀・その他あらゆる点で、既刊のこの種の叢書から群を抜いているというおほめの言葉をいただき、編集室でも一層はりきって努力しております。」

毎月1巻刊行されていたわけだが(そもそも附録が「月報」だから当然)、今の自分の生活で、仕事のためでなく教養や楽しみのために、毎月1冊読めただろうか。読み下し・注釈・解説、それにもちろん月報も読まなければならない。

日本古典文学大系月報1

岩波書店日本古典文学大系」の月報を入手したので、一から順番に読んでいる。

月報1は第四巻『万葉集 一』の附録で、書店による「刊行の言葉」、土岐善麿「異邦的万葉小感」、土屋文明万葉集を読みはじめた頃」、山岸徳平「書誌学の話 一」、大野晋「橋本先生と万葉集」、各巻目次からなる。
 
「戦後の国語教育改革の結果として、国民一般――特に若い人々にとって、わが祖先の遺した数々の古典が、ますます近づきがたく、親しみがたいものとなって来ている。日本の将来についてすべての国民が深く思いを致すべきとき、従ってまた、わが民族の過去の輝かしき業績について深い反省の必要とされるときにあたって、このような溝の深まってゆくことほど、悲しむべく憂うべきことはないであろう。」
「読者の広汎な支持によって、滞りなくこの事業を完成し、期待するとおり、わが古典文学の驚くべき美しさと豊富さとが、現代の日本に浸透する日が来るならば、それは決して小店ひとりの欣懐にとどまらないと信じる。」
昭和32年5月)
 
山岸徳平「書誌学の話」より
平安時代には、物語や歌集も、一般の男女によって、真面目に書写せられていた。その時代のもので、現存する一部の写本は、達筆な人々の筆になったものであったから、今日でも、古筆として尊重せられている。達筆でない人々のは、残念ながら亡びて伝来していない。」
達筆でない人々涙目。
しかし山岸先生は、研究のためにその伝来せざるを残念がってくださっている。
 
土屋文明は、中学の時大阪積善館刊行の『万葉集略解』を入手して「級友が英単語のカードを作るやうに、万葉の歌をカードにして」暗記したが、伊藤左千夫に師事し、師が『古義』の訓に従うこともあり覚えた訓を訂正しなければならなかった。しかし自然に口にのぼるのは身についた『略解』の訓で、複数の訓を並行に認めることによって「四千五百首の万葉集を五千首にも六千首にもして味へると思つてゐる」。いわゆるポジティブシンキングである。
 
月報や解説、記念論集の序にしばしば書かれる恩師の思い出話を読むのが好きだ。
大野晋による橋本進吉の回想も興味深い。
「日本語の起源は、インドの北方のほろびつつある民族の言語にあるといった、単なる一つの思いつきにすぎないようなお話が、人々に喜ばれ、多く読まれるに反して、橋本先生のこうした地道な、着実な、しかも日本語を大切にするという、きびしい精神に支えられた研究が、あまり知られていないのは皮肉なことだ。」
安田徳太郎『万葉集の謎』の刊行は昭和30年(1955)だから「大系」刊行開始の2年前、直前と言ってもいい。一方大野晋タミル語起源説を唱えるのはだいぶ後か。
「昭和二十年一月、お宅の付近に爆撃のあった翌々日、先生は、夜中のうちに誰にも知られずに息を引きとられた。先生は、ヤミのものをお買いにならなかったので、栄養失調で亡くなられたものと私は思う。」