日本古典文学大系月報1

岩波書店日本古典文学大系」の月報を入手したので、一から順番に読んでいる。

月報1は第四巻『万葉集 一』の附録で、書店による「刊行の言葉」、土岐善麿「異邦的万葉小感」、土屋文明万葉集を読みはじめた頃」、山岸徳平「書誌学の話 一」、大野晋「橋本先生と万葉集」、各巻目次からなる。
 
「戦後の国語教育改革の結果として、国民一般――特に若い人々にとって、わが祖先の遺した数々の古典が、ますます近づきがたく、親しみがたいものとなって来ている。日本の将来についてすべての国民が深く思いを致すべきとき、従ってまた、わが民族の過去の輝かしき業績について深い反省の必要とされるときにあたって、このような溝の深まってゆくことほど、悲しむべく憂うべきことはないであろう。」
「読者の広汎な支持によって、滞りなくこの事業を完成し、期待するとおり、わが古典文学の驚くべき美しさと豊富さとが、現代の日本に浸透する日が来るならば、それは決して小店ひとりの欣懐にとどまらないと信じる。」
昭和32年5月)
 
山岸徳平「書誌学の話」より
平安時代には、物語や歌集も、一般の男女によって、真面目に書写せられていた。その時代のもので、現存する一部の写本は、達筆な人々の筆になったものであったから、今日でも、古筆として尊重せられている。達筆でない人々のは、残念ながら亡びて伝来していない。」
達筆でない人々涙目。
しかし山岸先生は、研究のためにその伝来せざるを残念がってくださっている。
 
土屋文明は、中学の時大阪積善館刊行の『万葉集略解』を入手して「級友が英単語のカードを作るやうに、万葉の歌をカードにして」暗記したが、伊藤左千夫に師事し、師が『古義』の訓に従うこともあり覚えた訓を訂正しなければならなかった。しかし自然に口にのぼるのは身についた『略解』の訓で、複数の訓を並行に認めることによって「四千五百首の万葉集を五千首にも六千首にもして味へると思つてゐる」。いわゆるポジティブシンキングである。
 
月報や解説、記念論集の序にしばしば書かれる恩師の思い出話を読むのが好きだ。
大野晋による橋本進吉の回想も興味深い。
「日本語の起源は、インドの北方のほろびつつある民族の言語にあるといった、単なる一つの思いつきにすぎないようなお話が、人々に喜ばれ、多く読まれるに反して、橋本先生のこうした地道な、着実な、しかも日本語を大切にするという、きびしい精神に支えられた研究が、あまり知られていないのは皮肉なことだ。」
安田徳太郎『万葉集の謎』の刊行は昭和30年(1955)だから「大系」刊行開始の2年前、直前と言ってもいい。一方大野晋タミル語起源説を唱えるのはだいぶ後か。
「昭和二十年一月、お宅の付近に爆撃のあった翌々日、先生は、夜中のうちに誰にも知られずに息を引きとられた。先生は、ヤミのものをお買いにならなかったので、栄養失調で亡くなられたものと私は思う。」